会津駒ヶ岳

会津駒ヶ岳は、桧枝岐村の北に位置する標高2,133mの山。
登山口から中腹までは、ブナの樹林帯の急な登りになるが
中腹の水場を越える辺りからダケカンバやアオモリトドマツの
幾分緩やかな登りになり、駒の小屋直下や山頂付近〜中門岳の
稜線は、池塘の点在するなだらかな高層湿原が広がる福島の名山。
夏場は、残雪が融けると共に群生する高山植物が開花し、訪れる人々の
目を楽しませてくれる。会津駒は、その山容から女性的な山として、
一般的には知られているが、春のお彼岸の積雪期に登山し、一度
痛い目を見た事がある。もう二十年以上前、二十代も半ばの頃だった。

写真を撮る事もあり、殆ど単独行で登山していた私は、
無雪期から残雪期〜冬山と、徐々に山行の領域を広げて行った。
会津駒の積雪期の写真を撮る為に、3月のお彼岸の3連休で
登山した時の事だった。

前年も同時期に登り、好天に恵まれて撮影は出来たが、
カメラも小型で日帰りだった事もあり、今回は知人から
1人用のテントを借り、中判のカメラ等、30キロ程の
機材諸々を担いで山頂付近で一泊する事にした。

金曜の夜中に自宅を出て三時間程、檜枝岐の滝沢登山口の
入口に着く。夏場は、2キロ程だろうか?階段状の尾根への
取り付きまで車で行けるが、積雪期の今は、国道から取り付く。
山スキーにシールを貼付けて登るが、自分の他にも3人の
パーティーが入っており、結局山頂まで、抜きつ抜かれつで
登って行き、昼前には山頂に着いた。その日は昼過ぎまで好天。
山頂付近でお湯を沸かし、昼食を取った。3人のパーティー
新潟からで、自分が興味を持っている山域を会の名前に冠して
おり、お互いの連絡先を交換した後、彼らはスキーで下って
行った。その後一人でゆったりとした時を過ごしていると、
ヘリの音がし、桧枝岐村のヘリスキーツアーの紹介らしく、
スキーヤーと撮影スタッフ、女性のアナウンサーらしき人達も
やって来て、山頂からの景色の紹介やら撮影をした後、
またヘリで戻って行った。当時はヘリを使ったヤマスキーの
ツアーも企画されていたのだ。

午後から雲が曇が出て来て段々厚くなって来たが、そう崩れる
事もないだろうと思い(心の中では、折角来たので撮影がしたい
思いが強かったのだが‥)夕方前には駒の池の脇辺りにテントを
張った。二階建ての駒の小屋は屋根が少し露出している程度。
積雪量は数メーターと言った所だった。

夕方暗くなる辺りから、南よりの強い風が吹き始めた。その後の
気象通報では、台湾沖に発生した低気圧が発達しながら南岸沿いを
東進し、月曜には三陸沖に抜けるとの事だった。1人用のダンロップ
テントは、ドーム型を半分に切った様な形状でポールにフックを
引っ掛ける吊り下げ式。その外は、外張りと言うかフライシートで
すっぽりと包む様な形式だった。風は一晩中強くテントは常に
バタバタと音を立てている状態で、眠りについては風の音で目を
さまし、ラジオの情報に聞き耳を立てる状態だった。

次の日曜日も1日強風。時折テントから外に顔を出すが、ホワイト
アウトの状態で視界が利かず、とても動き出せる状態では無かった。

当時は体力もピークの頃で、社会人という事も有り、装備には
お金を使って、厳冬期用の羽毛のシュラフゴアテックス
シュラフカバー、ダウンジャケット等、テントの空間が狭い事を
除いて、割と快適に過ごせていた。只、風雪が落ち着いてくれないと
まずい事になるとは思っていたが、下手に動いて遭難するのも
危ないので、結局日曜の夜も停滞した。借りて来たテントは、
強風でポールが曲がり、狭い居住空間が、ますます狭く、自分の
体の形状で床面が沈んで行き、殆ど身動きが出来ない状態になって
行った。

月曜の朝も、まだ風は強かったが、昼前には檜枝岐に降りて連絡を
入れないとまずいなと思い、強風の中テントを撤収して下山を
始めた。夜明けの蒼い世界から明けて来る時間帯だった。

会津駒の小屋直下から湿原の数百メーターを上手く抜けて樹林帯に
入れば大丈夫だろうと考え、歩き始めた。下山方向の稜線を挟んで
右側の上の沢側は割合緩やかで大きな滝も無いが、左側の下の沢側は
滝の連続する急な沢。間違っても左側には入らない様に気を付けて
いたつもりだったが、

ホワイトアウトの中、見当をつけて東進する。しばらくして風が呼吸し
少し弱まった時、自分の左手上部に稜線が見えた。危ない、下の沢側に
入っている。進路を右にトラバースする様にして、何とか樹林帯に入る
事が出来た。稜線は風が強いせいで雪が吹き飛ばされ、積雪は其れ程
でも無かったが、樹林帯の斜面に入ってから、輪かんを履いても膝上
まで潜る様な状態だった。山スキービギナーの自分に取って、登る時には
助けてもらったスキーも、この時はお荷物でしか無かった。樹林帯に
入ってから、風はだいぶ和らいだが、登る時は問題なかった稜線の分岐
でのルートを度々誤り、今度は右々と、上の沢側に入ってしまうので、
その都度地図とコンパスを使って確認し、再び登り返して正しい
尾根を下ると言う繰り返しだった。結局夏場なら三時間も掛らず下山
出来る所が八時間以上も掛かり、檜枝岐の国道に降りたのは午後の
二時半近くになっていた。

民宿で電話を借りて家に電話すると、電話に出たお袋から開口一番
「バカヤロー」と。お袋は自分と房総方面に友達と旅行に行った妹が
戻らないので、一晩中居間のコタツに寝て心配していたと、電車の
遅れで夜中に戻って来た妹から、後で聞いた。典型的な昔の人で、
控えめで大人しいタイプの母親だったので、本当に心配を掛けたんだと
悟り、家に着くまでの帰路が憂鬱だった。普段、無断欠席はした事が
無かったのに会社に行かなかった為、上司等が心配し、職場の工場長と
総務の係長が家に来て、両親と捜索願を出そうかと言う所だったのだ。
昔気質で普段恐い印象の父親の方が、普段通りで「大丈夫だったか。
気を付けて帰って来い」と言ってくれたのは、まだ救われた気持ちだった。

そうして心配を掛け続けた母親も、それから何年かして亡くなり、
親父もめっきり小さくなってしまった。

この時の会津駒と、正月に登った飯豊は、登山を始めたばかりの自分に
取って、冬山の厳しさを教えてくれたと思う。

夜明けの会津駒〜燧ヶ岳と残月(桧枝岐村)

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