南相馬市、

震災の時は、次の日にレンタカーを借りて帰省し、実家の壊れ物の
片付けや家族の安否確認等をして戻って来たが、その後高速道路が
災害復旧車両向けになり一般車両が通れなかったり、鉄道も不通、
燃料等の影響もあり帰省出来ずじまいだった。つい先日、実家での
所用の件も有り、時間を取れる事になったので、ここ暫く心に
引っかかっていた、義援金や支援物資を直接被災地に届けたいと
思い、南相馬市浪江町の役場が移転している東和町に向かった。

朝の5時に実家を出て約二時間程で、南相馬市(旧原町市)に
着いた。朝の7時だったが、役所には担当の方二名がおり、
支援物資を預かって貰った。義援金に関しては、担当の方が
まだ出勤されていないとの事で、振り込み口座のコピーを頂き
被災地の様子等を伺って役所を出た。

県道12号線を東に向かい、国道六号線を抜け、海へと向かう。
雨模様で早朝の事もあり、車は殆どない。震災の被害は実家の
郡山と同じく、屋根瓦の天辺がやられてブルーシートで覆い、
土嚢で止めているお宅や、大谷石の塀が崩れている家が有るが、
家屋の倒壊等は無く、実家のある中通りや他の地域と一緒だった。
そんな風景が一変したのは、12号線の終点の丁字路の信号を
左折し、緩やかな下り道に入った途端だった。

二階建ての家の一階部分が破壊されがれきの山になっている家が
見え、奥の家も1回部分が壊され、車が屋根の部分をこちらに向け
1階部分のガラスにはまっている。道の両側にはがれきの山。
さらに道を右折し、海方向に向かった。

ここから海までは直線で二キロ程。太平洋の狭い砂浜を隔てて
数mの高さの防波堤が南北に連なり、防波堤に守られる様に
集落が点在していた。そこからここまでは平らな土地が広がり、
一面の水田地帯だった。

今、目の前に広がる景色は、砂や泥で覆われた田んぼにがれき等が
広がり、高圧の鉄塔が無惨にも粉々にされていたりと、
まるで戦場の様な破壊しつくされた光景が、自分の目の周り
360度に広がっていた。電柱が、信号機が、全てがなぎ倒され
残っているのはコンクリートで作られた家屋とその土台
だけ。その日は、午後から三島に出かける用事もあり、
数枚の写真を撮り、途中で東和町の役所に寄り、西に向かった。

日曜の朝、再度また訪れて、昼過ぎまで被災地を撮影しながら
何人かの方にお話を伺う事が出来た。海のすぐそばで、
土台だけになってしまった家に腰掛けていたおばあちゃんは、
挨拶を交わすと、こうおっしゃった。
津波で一瞬のうちに、何もかも無くしてしまいました」
「私が昭和十六年にここに嫁に来る際は、お爺ちゃん
からは、ここは遠浅の海で三陸のような津波はないと聴いていたのに
まさかこの様な事になるとは」と。おばあちゃんは嫁いで来た
年から考えて80半ば位だろう。地震の時家に居たが、近くで
働いていた息子さんが車で迎えに来て避難所に送ってくれたので
助かったとの事。そこは戸数六十戸程の集落だったが、其の時間
家にいたのは老人ばかりで、ほとんどが逃げ遅れて亡くなった
そうだ。息子さんは委託の分も含め十ha程の稲作と肉牛を三十頭
飼っていたが、「牛は流されてしまったし、田んぼはこの通りで
これからどうしたものだか」。おばあちゃんは嘆くでもなく
淡々と自分に話を聞かせてくれた。娘さんと来られていたので
お礼を言って別れたのですが、目の前に有るシュールとしか
言えない現実に何も言えない思いだった。

帰り際に家屋を撮影させて頂いた、三十代半ば位の方の一言が
心に残っている。

原発の事故が無かったら、もっと多くの人達が助かったのに」


写真は被災前の請戸漁港(浪江町)と南相馬市下渋佐